玄米はいつから食べられている?
日本では健康食品の代表として、玄米が挙げられますよね。
そんな玄米は、いつから食べられているかご存知ですか?
なぜだか私たちには、日本人はずっと昔から玄米を食べていた、というイメージがありますよね。
しかし、それは本当なのでしょうか?
今回は、日本で玄米が食べられはじめた時期や、お米の歴史についてご紹介します。
お米栽培の歴史
日本にはじめてお米が持ち込まれたのは、今から約3000年前、縄文時代です。
中国の福建米が起源とされており、大陸から東シナ海を通って渡ってきたと言われています。
弥生時代中期には、北海道を除く日本各地で栽培されるようになりました。
縄文時代から食べられていたお米ですが、もみ殻や糠が取り除かれた精製米が食べられるようになったのは、弥生時代の次の大和朝廷の時代と言われています。
当初日本で栽培されていたお米は今のようなお米ではなく、糠が赤い、赤米と呼ばれるお米でした。
お米が現在のような白米になったのは、奈良時代頃です。
この時代の白米は”しらげのよね”と読み、貴族階級の人々が口にするものでした。庶民はお米を精米することに手をかけられなかったのです。
ちなみに赤米は、明治時代まで栽培されてきましたが、明治時代に政府が赤米を”雑草だ”と言ったことで、栽培量が激減したといわれています。
玄米の歴史
白米が貴族の食べ物ならば、庶民は玄米を食べていたのだろうと思いませんか?
実は、お米が伝わってきた当初を除けば、精米の方法は徐々に開発されていたため、精米されたお米を食べるのが一般的でした。
とは言え白米のように完全に精米されたものではなく、何割か糠が残った状態の分づき米に、ヒエやアワなどの雑穀を混ぜて食べていたのです。
この分づき米を、当時は黒米と呼んでいました。
昔は税としても納めていたお米ですので、コストや手間をかけて完全に精米されたお米を食べるというのは、庶民にとっては大変贅沢なことだったのです。
私たちが”昔の人は玄米を食べていた”と想像するのは、実は完全な玄米ではなく、分づき米だったのですね。
玄米から白米へ
そして、江戸時代頃、黒米は玄米と呼ばれるようになります。
江戸時代中期には農業技術の発展や新田開発により、米の生産量が向上しました。
また、戦乱の世が去り政治も安定していたため、さらに米の生産に拍車がかかりました。
この頃の食事は、現在のように肉や野菜が少なかったため、玄米は本当の意味での”主食”でありました。
しかし、玄米を炊くには、多くの薪が必要なうえに、硬さがあるのでかなりの時間を要します。
特に都市部の人々は、薪を自給できずに購入していたため、より少ない薪で、短時間で炊くことができる白米を好むようになっていきました。
十分な生産量と技術の発達により、この頃には武士階級だけでなく、農民も白米を食べることができるようになってきたのです。
また、保存上の観点からも、玄米よりも痛みにくい白米がよいとされるようになっていきました。
白米が主流になったことによる病気
こう見てみると、黒米としては存在していたものの、案外玄米の歴史は浅いですよね。
昔から、日本人が好んでいたのは白米であったことが分かります。
都市部を中心に、上級国民だけでなく、庶民も口にできるようになってきた白米ですが、そこである問題も生まれました。
先ほど玄米が本当の意味での”主食”であったとお伝えしたように、当時は主食以外に食べていたものといえば、お漬物や汁物程度だったとされています。
それまで玄米のもみ殻や糠に含まれるビタミンやミネラルで栄養バランスが保たれていたものの、精米することでそれらが削がれ、極端にバランスを崩してしまうようになりました。
そうして、欠乏症である”脚気”が流行し、”江戸患い”とも呼ばれました。
地方でも白米が食べられるようになったのは明治時代以降と言われています。
玄米には現代の日本人に不足しがちな栄養素も
玄米は昔からずっと食べられていたというイメージですが、意外にも昔から精米という概念は存在しており、上級国民は白米を好んでいたことが分かります。
現在は機械で簡単に精米することができますが、昔は手作業。ましては納税にも必要な大切な財産。自分たちが食べるお米まで、時間や手間をかけて精米することは、とても贅沢なことだったのだと思うと、今は便利な時代ですよね。
しかし、欠乏症が流行してしまったくらい、玄米に栄養が多いことは事実です。
今は野菜やお肉なども簡単に手に入り、バランスを考えることができますが、玄米に含まれているビタミンやミネラルは、現代の日本人にも不足しがちです。
玄米だけでもバランスが保てていたくらいですから、主食を玄米にすれば、さらにバランスの良い食生活になることでしょう。
ぜひ、主食を玄米にしてみてはいかがでしょうか?